この数日、グルメレポーターになったりサークルメンバー紹介したりでTRPGの話題が減っていましたがそれも今日でおしまいだ。CoCの考察についてのお話ですよ!

 実は、この数日間、先日書いた記事、「とあるオフセ・オンセのプレイヤーの反省会」が思わぬ形で多くのCoCプレイヤーの方々に閲覧されており、驚いていました。カウンターが一気に伸びていたので当初は見間違えたのではないかと思って「み、みえない~!」とアミバトキのようなことを言っていました。
 Twitterで記事を読んだ上でのコメントがつぶやかれていたのでそっちの一部も目を通した上で、アドンとサムソンによる反省会のまとめをさせていただきます。
 今回の記事で考えることはとてもシンプル、「反省会で悪かったのはダレか」と「参加者は何を望んでいるか」です。この問いを筆者なりに考えてみました。

 考えるべきことその1:―悪いのはダレ?― 
 
 感想ツイートをみていて気づいたことに、 「サムソンが悪い」というコメントが少なからずありました。
 そういう意見を受けた上でひとつだけ疑問を提起します。それは、「本当にあのセッション反省会でのサムソンは悪かったのか?」ということです。
 サムソンに対してあまり肯定的な意見がなかったことの理由をいくつか筆者なりに考えました。おそらくは、「本人の閲覧者の共感を誘えるような言葉尻ではなかった(本人の自分勝手さが強調されるようにみえていた)」「KPに対して同情的な読み手が多かった」「読み手の大多数とセッションに対する姿勢が合わなかった」といったことが理由ではないかと分析します(間違っているかもしれません)。
 「サムソンがより人から共感されるような言動を取れるようになれば、ある程度の問題は収まるんじゃね?」という疑問はここではおいておくとして…特に注目すべきは「セッションに対する姿勢が合わなかった」という部分です。これが非常に話のキモではないでしょうか。
 周囲と「合わなかった」、つまり、「適合する参加者と一緒であればうまくいっていた」のではないかということに繋がります。
 そもそもの問題は、「ゲームの楽しみ方が違う人間が一緒になってしまったから」だと考えるとしましょう。それならば、悪いのはサムソンではなく、むしろゲームの指針をしっかりと説明し、かつ承認を取らなかったKPの責任ともいえるのではないでしょうか。
 持ち物についても、技能についても、セッション中でのRPとタイムキープも、KPとPLとの位置づけも、すべてはKP、つまり筆者が丁寧にサムソンに対してアプローチをとっていたら問題とならなかったのではないでしょうか。こういう考え方もできるのです。
 しかし、同時に、「そこまでKPに強いるのは酷だ」と考える方もいるでしょう。なぜなら、ただでさえクトゥルフ、特にオンラインセッションにおいてKPの負担は非常に重いからです。遊び方がまったく異なる人間同士を同セッション内においたまま恙無くゲームを終わりまでもっていくのは難しいでしょう。なぜなら、「セッションの臨み方・遊び方がまったく異なる」のですから
 アドンがタイムキープやKPへの配慮を特に大事にしながらゲームを進行していくのに対し、サムソンはRPをひたすらに重視し、かつKPから用意されたレールに乗らずに独特のプレイングでゲームを進行していきたがるのです。この両者の立ち位置は往々にして衝突するでしょうし、反省会で指摘された問題の原因もこの部分の違いに起因しています。
 ところで、遊び方の異なるPL同士の噛みあわない現象について、あるボードゲームとそのオンライン版に似たものがあります。もしかしたら気づいている方もいるのではないでしょうか。そうです、「人狼」こと「汝は人狼なりや」です。人狼ゲームについてご存知ない方は、タイムリーなことに、ゆめぎが「ボードゲーム紹介記事」で当ゲームについての紹介記事を書いていたので御覧ください。
 このゲーム、同じルールのはずなのにオフラインとオンラインでの遊び方が大きく乖離しがちであるという指摘がなされているのです。故に、それぞれのプレイヤーが一同に会した際に、それぞれが思うようにゲームをプレイできないなんていうことが起きたりも…。
 



 このような問題について、人狼ではオフラインとオンラインでの違いを、完全に別の異なるゲームとして扱うというのが多いようです。「オフライン人狼にネット人狼(オンラインで行われる人狼のこと)の流儀を持ってくるのはタブーである」というのが幾つかオフライン人狼のイベントの見学や参加をした上での結論でした。オフライン・オンラインいずれの人狼だけをやっていてもいいし、時には異なる文化圏に入り込っていってそちらの流儀に応じた遊び方をしてみてもいい。ただ、そこには常に、「これとあれは違う」という境界が存在するという前提があります。
 この住み分け理論は、CoCでの問題解決方法のモデルとして考えることができるのではないでしょうか。つまり、異なる部分をKPが丁寧にカバーすることで異文化コミュニケーションを上手に成立させてもいいですし、その違いを前提にそれぞれの文化圏に篭ってしまうというのも立派な方法なのです。
 後者の手段については、意外に思う人もいるかもしれませんが、住み分けを敢えて肯定してしまうのは悪いことではありません。なぜなら、「参加者は単純にセッションを楽しむことを望んでいる」からです
 

 考えるべきことその2:―参加者は何を望んでる?― 
 
 前項の末尾でほぼ答えを出してしまっていますが、ここで次の問いを提起します。それは「参加者が求めているものは何なのか」ということです。
 反省会の最後で、2人はある共通した意見を述べています。それは「楽しかったからいい」ということでした。この言葉は、反省会の終始意見が違ったアドンとサムソンの唯一の共通見解でした。
 ここから導き出される結論は非常にシンプルでしょう。
 わざわざ、予定の調整も、準備も決して楽ではないTRPGをやるのか…。それは、結局のところ「楽しみたいから」なのです。
 ゆえに、セッションが楽しければ全てが肯定されるし、逆に面白くなければ途端に楽しめなくなってしまう。プレイのログを他人が見てどれほど笑ったって、当事者が楽しめなければ、少なくとも本人たちにとってそのセッションには価値は見出せないのです。
 つまり、「楽しい 」を突き詰めてさえいれば、異文化コミュニケーションをしたって、逆に住み分けた中でのみセッションをしていたって許されるのです
 ここでようやく、前項で説明の足らなかった、「住み分けを肯定することはいけないことではない」とした理由がみえてくるかと思います。結局のところ、トラブルなく、いかに気持ちよく遊べたかということをPLは大事にしているに過ぎません。そしてKPの仕事とは、より参加者に楽しんでもらうことである。そう考えれば、一手段として住み分けを肯定して、その中で楽しいセッションをつくっていっても、それはまったくいけないことではありません。
 「どうしたらより楽しくなるか」。その問いを常に理解しておくことが、セッションをより充実させるための秘訣ではないかと筆者は考えています。
 アドンとサムソンの反省会は、 そんな、よくよく考えてみれば当たり前のことを改めて教えてくれるものでした。掲載許可をくれた、それぞれの気がまったく合わない二人の友人に感謝しながら反省会の総括を終わります。

 あと、サムソンはもう少しKPの話聞こうな!